こうして大正七年、三十八歳のときに一応の財産もできましたので、故郷忘じがたく、両親のことも気になりまして福岡へ帰ってまいりました。
しばらく静養しているうちに、たまたま無尽会社をつくろうという話が起こり、太宰府の名望家だった広辻信次郎氏にさそわれ、いっしょにずっと苦労し、十年ほど前に会社を退かれた速水梓さんや太宰府町長をされた斉藤廣路さんたちと、大蔵省の認可を受けて、大正十三年六月八日に福岡無尽株式会社をつくったのです。
当時は庶民金融機関の新設が相ついだ頃で、九州全体で四十社あまり、福岡だけで十三社もありました。資本金も二十万円だったのですが、私たち三人とも、いわば無名の人間ばかりで、名士の知り合いがありませんので、株式の引き受け手がなく、朝鮮の親戚にまで金集めに行ったり、さんざん苦労いたしました。
この会社を始めた時の私が四十四歳、それに事務所が中島町の四十四番地、それに私の名前が四島と四ばかりつづくものですから、縁起が悪いということで、親類の者たちが大変心配をして、来年にしろと反対が多かったのです。でも、元来そんなことを気にかけない性質ですから、計画通り始めてしまいました。
社長は広辻さん、私が専務ということで始めたのですが、実際には私が代表者になってしまいました。
いざ会社をつくるとなると、命から次に大切な人さまのお金を預かるわけですから、なみ大抵のことではいけないと思いまして、非常な決心をしたものです。
アメリカでの第一の事業は、一応成功した。こんどの仕事は、今までの恩返しのつもりで、誠心誠意頑張ろう。そんな気持ちもありました。
とにかく一生懸命でしたが、そのためには精神と体の健康が大切と考え、自分を律する生活に変えて毎朝三時半に起きたものです。
目ざまし時計も一つでは心もとないので、枕もとに三つ置き、それで飛び起きると、山羊の乳をしぼり、鶏の世話をし、爽やかな気持ちになってから、仏壇に向かい、発願文を読みあげて、出勤しました。
大正十五年に数え歳五歳の長男が疫痢で亡くなりまして、早朝墓参をしておりますうちに、そのまま始発に間に合いまして、一番電車通勤が身についてしまったのです。
会社に着くのは、まだ夜明け前ですが、午前九時に全行員が出てくるまで、お茶を沸かしたり、新聞を読んだり、読書をしたり、会社のことを考えたりしました。
この朝の時間が私にとっては、一番の勉強の時間でした。それから今日までこの時間を利用しているのですから、ずいぶん役立ったと思っています。
日中は色々と仕事をしますが、午後の四時にはきちんと帰宅し、畑や園芸の仕事に精をだして、七時には床に入りました。
こうして昭和三十二年まで、三十年余一番電車通勤を続けたのですが、私が喜寿を迎えたとき「社長も年だから、もう早く会社へくるのは止められませんか。それに電車も大変だから車を使って下さい」と若い人たちから言われました。
考えてみると社業一途にこの生活を続けたのですが、社運も全く固まったし、後継の人たちもしっかりしてくれるので、若い人たちの気持ちを汲んであげようと思いまして、早起きは変わりませんが、通勤時間も普通にし、会社の自動車を使わせてもらうことにいたしました。