八十年

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はじめに

私は今年、数えの八十歳を迎えました。元気に働いておりますので、人からお目出たい、お目出たいと祝っていただくのですが、そう言われるとまんざらでもなく、若い人たちにまじって、元気に働いておられるのが、何よりも幸せだと思っている次第です。

こうした喜びの日々を迎えることができましたのも、私が幸い健康であったからでありまして、そういう意味あいからも、八十歳を元気で迎えましたことは、やはりお目出たいことだなあと、自分でも嬉しくなる訳でございます。

私は人から変わりものだとか、頑固者だとか言われてまいりましたが、それは自分なりの自戒を作って、それを頑ななまでに守ってきたからであると思います。

ある新聞に、格言好きが趣味であると書かれ、苦笑したこもございましたが、これは私の生き方で、家族にも行員にも強要したことは一度もございません。

いずれにしろ私流儀の信念で生活を律してきましたことが、私のたった一つの取りえでございましょうか。

01.数えの十七歳で渡米

私は明治十四年に福岡県三井郡金島村の農家の三男坊に生まれました。

勉強はそれほどできるわけではありませんでしたが、人一倍、負けずぎらいの腕白坊主で、親にもずいぶんと心配をかけたようです。

明治の中頃はちょうど移民ブームのあった頃ですが、十七歳のとき、父から百六十円のお金をもらい、一旗あげようと思ってアメリカへ渡りました。今の高校生の年頃ですから、ずいぶんと無茶なことをしたものだと思いますが、心の中に燃えていた青年の血気が、この決心をさせたのでしょう。

横浜を発って三十四日目にポートランドへ着きました。言葉を覚えるのが一番ですから、サンフランシスコで簡易ホテルに住みこみ、最初は手まねで、皿洗いから、ジャガイモの皮むきまで色々のことをいたしました。

それから、サクラメントで野菜作り、ホップス農場、ぶどう園と転々と職場を変わり、ついにはニューメキシコで線路工夫とずいぶん苦労を味わったものです。

そのとき、監督のアメリカ人が目をかけてくれ、君はこんなことをしていてはいけない。ロスアンゼルスへ行って働けと、激励してくれました。

手持ち金は七十ドルで、ロスアンゼルスまでの汽車賃が二十ドル。残りが五十ドルでは心細いので、とうとう貨物列車に乗り込んだ次第でした。

こうしてロスアンゼルスへ着き大きなレモン農園に勤めましたが、レモン栽培はとても手間がかかるので、忙しい時には寝るのも靴をはいたまま、風呂も滅多に入れない状態でした。

そのうちに、こうした働きぶりが認められたのでしょう。耕地三百町歩、従業員四百五十人もいるこの農場の支配人に、僅かに二十一か二の私を抜擢してくれたのです。

こうなりますと、私も知己の情に感じて、なお一心に働きますし、そうすれば先方でもいっそう厚遇してくれるという訳で、私の生活も次第に安定し、自分の思うこともできるようになりました。

02.自動車事故

当時のロスアンゼルスは人口が六万人位でしたが、今では二百六十万人、自動車が初めてできたのは私が行って六年目ぐらいだったでしょう。(※二○○六年現在で約三六○万人)

自動車といえば、運転を誤って死にかけたような事もございました。

当時の邦字新聞の記事がありますが興味深いので引用してみますと、

「四島氏の災難。サンタポーラレモン・キャンプボスの四島氏は、去る日曜日、新調の自動車にてサンタババラ市に向かう途中、誤って絶壁の山道より自動車とともに墜落し、約三百尺の谷間に止まりしも、千五百ドルの自動車は粉微塵となり、当然即死の災難に遭うべき筈の同氏は不思議にも跳ね出されて、面部及び手首に軽傷を負いたるのみなりしとは、不幸中の幸いというべく、墜落当時現状を目撃し居たる白人等は、四島氏の死より免れたるを一個の奇跡と称し居れり、尚破壊したる自動車は七十ドルにて売り渡したりという」と載っています。

アメリカにいるとき、一番嬉しかったのは、明治三十八年の日本海海戦で、東郷大将がロシアのバルティック艦隊を全滅させたときでしたね。

朝早いのにアメリカ人が起こしにきて、「トーゴーはえらい。トーゴーはえらい」と私を握手ぜめにしたことがありました。

このときの東郷さんの人気は全くたいへんなもので、ある新会社は製品にトーゴーという名をつけ、またトーゴー駅までできるありさまでした。

それから変わったことと言えば、エジソンやロシア亡命中の片山潜と食事して、話しあったこともありました。片山という人は色の黒い男で、あるレストランのコックをして、生活を立てていましたが、これからはロシアへ行かねばならぬというようなことをさかんに私に言ったのを覚えています。

それから、私の下に大逆事件で処刑された幸徳秋水の内妻、菅野スガの弟がいて、「もう私は日本には帰れない。横浜で刑事につかまるだけだから」と言っていました。

そのほかトルストイの長男という人に会ったり。いろんな愉快なことがありましたが、とにかく六、七十年も昔のことですから、ずいぶんと古い話です。

03.感心したこと

大正にはいりましてから、親日的だったアメリカの感情が、少しずつ反日的になるようになりましたが、この頃日本へ武威を見せるためでしょうか、アメリカの大西洋艦隊を太平洋に巡航させ、ロスアンゼルスへ入港したことがありました。

これは、市始まって以来のことですから、大変なさわぎでしたが、その歓迎パーティの費用を一般から募集することになりました。

そこで早速五十ドルの小切手に手紙を添えて差し出したのですが、日本人の私がたまたま寄付の第一号だったためにたいへんな評判となり、アメリカ人にひどく受けまして、地元の有力紙、エギザミナ、ロスアンゼルス・タイムスの一面トップに写真入りで大きく取りあげられ、大変面はゆい感じをしたものです。

このとき感心しましたのは、艦隊が引きあげてから、費用が余ったからといって残金を返してきたことです。たしか半分の二十五ドルぐらい返ってきましたが、これなど、まことにすっきりして気持ちのよいことでした。

こういうふうにして、あちらで暮らしていたのですが、数年前のこと、向こうの知人が新聞を送ってくれました。その中に「明治末期に四島という大ボスがいたが」と書いてあるのです。もちろんこのボスは、親父とか、社長とかいう親しみの言葉ですが、今でも何かと話題になっているのかと、昔を懐かしんだことでした。

いずれにせよ、私のいた頃は、良い意味での発展時代の西部の姿が残っていました。その中で、個人主義の観念、責任と義務をはっきりすることを、生活の中から学びとったのは、大きな収穫だったと思っています。

こんなこともございました。アメリカの測量士といっしょに仕事をするとき、三つの幼児を連れていってもいいかと聞くので、快諾しました。それでヨチヨチとついてきた子が石につまずいて転び、大きな声で泣きだしました。見ると、口から血が出ています。だが親父はほったらかしです。

それで、私が見かねて急いで抱きかかえて起こそうとすると、彼が私をとめて、やかましく言うのです。

「いらん世話を焼いてくれるな。僕の息子には手もあり足もある。自分で起きられる。放っといてくれ」と。とたんに私は赤面しました。

それから、向こうは日曜になると夫婦で教会へ行くのですが、子供は「行ってらっしゃい」とかなんとか言って、お留守番をしています。子供は親の、親は子供の領分を認め合い、お互いの人格を尊重しあっているのです。若いときにアメリカで生活した。このことが、私の人間形成に大きなプラスだったと思っているのです。

04.一番電車で三十二年

こうして大正七年、三十八歳のときに一応の財産もできましたので、故郷忘じがたく、両親のことも気になりまして福岡へ帰ってまいりました。

しばらく静養しているうちに、たまたま無尽会社をつくろうという話が起こり、太宰府の名望家だった広辻信次郎氏にさそわれ、いっしょにずっと苦労し、十年ほど前に会社を退かれた速水梓さんや太宰府町長をされた斉藤廣路さんたちと、大蔵省の認可を受けて、大正十三年六月八日に福岡無尽株式会社をつくったのです。

当時は庶民金融機関の新設が相ついだ頃で、九州全体で四十社あまり、福岡だけで十三社もありました。資本金も二十万円だったのですが、私たち三人とも、いわば無名の人間ばかりで、名士の知り合いがありませんので、株式の引き受け手がなく、朝鮮の親戚にまで金集めに行ったり、さんざん苦労いたしました。

この会社を始めた時の私が四十四歳、それに事務所が中島町の四十四番地、それに私の名前が四島と四ばかりつづくものですから、縁起が悪いということで、親類の者たちが大変心配をして、来年にしろと反対が多かったのです。でも、元来そんなことを気にかけない性質ですから、計画通り始めてしまいました。

社長は広辻さん、私が専務ということで始めたのですが、実際には私が代表者になってしまいました。

いざ会社をつくるとなると、命から次に大切な人さまのお金を預かるわけですから、なみ大抵のことではいけないと思いまして、非常な決心をしたものです。

アメリカでの第一の事業は、一応成功した。こんどの仕事は、今までの恩返しのつもりで、誠心誠意頑張ろう。そんな気持ちもありました。

とにかく一生懸命でしたが、そのためには精神と体の健康が大切と考え、自分を律する生活に変えて毎朝三時半に起きたものです。

目ざまし時計も一つでは心もとないので、枕もとに三つ置き、それで飛び起きると、山羊の乳をしぼり、鶏の世話をし、爽やかな気持ちになってから、仏壇に向かい、発願文を読みあげて、出勤しました。

大正十五年に数え歳五歳の長男が疫痢で亡くなりまして、早朝墓参をしておりますうちに、そのまま始発に間に合いまして、一番電車通勤が身についてしまったのです。

会社に着くのは、まだ夜明け前ですが、午前九時に全行員が出てくるまで、お茶を沸かしたり、新聞を読んだり、読書をしたり、会社のことを考えたりしました。

この朝の時間が私にとっては、一番の勉強の時間でした。それから今日までこの時間を利用しているのですから、ずいぶん役立ったと思っています。

日中は色々と仕事をしますが、午後の四時にはきちんと帰宅し、畑や園芸の仕事に精をだして、七時には床に入りました。

こうして昭和三十二年まで、三十年余一番電車通勤を続けたのですが、私が喜寿を迎えたとき「社長も年だから、もう早く会社へくるのは止められませんか。それに電車も大変だから車を使って下さい」と若い人たちから言われました。

考えてみると社業一途にこの生活を続けたのですが、社運も全く固まったし、後継の人たちもしっかりしてくれるので、若い人たちの気持ちを汲んであげようと思いまして、早起きは変わりませんが、通勤時間も普通にし、会社の自動車を使わせてもらうことにいたしました。

05.二宮佐天荘について

とにかく、こうした生活を十年一日のように三十年余の間続けましたので、四島の一番電車というと、今は一つの伝説のようになってしまいました。この間、業績も伸長して現在の銀行に育ちましたので、努力の仕甲斐があったと何とも言いようのない嬉しさです。私が銀行の自動車を使わずに、一番電車で通ったのを、奇をてらうように思われるかもしれませんが、決してそういうことではなく、銀行に着くまではあくまで私用だと考えましたから、代表者として公私の区別をはっきりするのは当然ですし、また創業当時の苦労を何時までも忘れてはならないと思ったからです。

それから社長が夜ふかし、夜遊びをしないということが、金融機関の従業員である行員の生活をひきしめる一助にもなったでしょう。それに電車は車よりものびのびとしていますし、第一、早朝の一番電車に乗るのは、非常に気持ちのよいことでした。少々脱線したようですが、三十年余というとずいぶん長いことですから、電車についても色々の思い出話がございます。毎日のことですから、ちょっと遅れると、運転手さんが私がくるまで、待ってくれるといった具合でした。

いつでしたか、停留所へ行ってみると、年配の夫婦がつかみ合わんばかりの見幕でやりとりをしているのです。どうやらご主人が、こんなに早く奥さんを起こしたことが原因らしいのです。

あまりひどいので、これは仲裁に入らないといかんなと思っていると、ご主人が「四島さんを見い。あの年で一番電車で通ってござる。お前はたった一日早く起きたからってブツブツいうな」と言ってるんです。これには全く恐縮してしまいました。

私の家は百道の海水浴場へ行く道すじにありますから、ご存じの方があるかもしれませんが、ジグザグの塀に囲まれています。写真のように段が八つになっているのは、七転び八起きを示しているのです。

事業を始めてから辛いこと、苦しいことも大分とありましたが、その都度、この「九十九転百起」の言葉で自分を励ましてまいりました。

数年前でしたが、修猷館高校の卒業式のとき、校長先生がこの風変わりな塀を引用して、困難に負けないようにと、卒業生への餞の言葉にされたそうで、大変恐縮したことがございました。

いつかの夏のこと、私が畠をいじっているときバスがとまったので何事だろうと思っていると、車掌さんが四島の塀の説明を始めたのです。車掌さんの話の方が、私よりも詳しいので、驚いてしまいました。

この塀に囲まれた私の家を、自分は「二宮佐天荘」と名づけていますが、これは次の四人の人たちを崇め、その人たちの徳性にあやかりたいと思っているからです。

これをごらんになって、私が崇める人たちが、特別の聖人や、達悟の人でなく、卑俗の人もまじっているので、奇異にお感じの方があるかもしれません。たしかに小学校の修身ではおそわらなかったような人もまじっていますが、それぞれの徳性においては、充分尊敬に値すると考えており、それだけに、私はこの荘の主人であることを誇りに思っている訳です。

06.獅子の宣言

この家の玄関には日蓮さんと大きなライオンの像が置いてあります。身をもって国難に当たらんと誓われた日蓮上人、あの人の信念には本当に頭が下がりますし、獅子は王者の風格をもっていますから平素から好きで、獅子の宣言を作って、かねがね、自戒の言葉としておりました。それで私の還暦のお祝いに、友人が、「君がライオンなら、俺は日蓮さん」だといって二人で贈ってくれたのです。

これは私の信条のうちで、一番好きな言葉ですが、多くの方からよい宣言だとお褒めの言葉をいただきました。私の部屋にこの文句を大きな額に入れておりますが、積極主義の獅子の四島でありたいと、常日頃、念願している私です。

こうまで述べてきますと、格言好きが趣味といわれるのも、無理はないと苦笑するのですが、人間で一番大切なものは信念であり、信念が力の泉だと考えておりますので、「力の泉」という言葉も作り、事があるたびに自分に話かけることにいたしております。

こんなふうに長年月にわたって、自分を律してまいりましたのも、私自身のささやかな力を捧げて少しでも多くの家庭を豊かにし、無産の人が小産に、小産の人が中産階級になってもらいたい、皆さんのお役に立ちたいという願いからでございます。

このことがひいては社業の発展を招き、従業員の幸せや、株主の方のご期待にもそえることになるのでしょうから、私も努め甲斐があるというものでしょう。

07.私の三無執着

心身の限りをつくせ職務の上に捨身の努力なくして快福なし

使命達成のために、私は一切を捧げて悔いない気持ちでございます。そして会社も一人前の銀行になり、私も八十の年輪をかさねた今日、その外には何の執着がございましょう。これを私は三無執着主義と申して居ります。

私個人としましては、名声、金銭、生命の執着は全く卒業したと思っておりますので、国家のお役や、社会のためになることなら何時でも命を捧げる覚悟でございます。ただ現在まで元気でおられるということは、もっともっと仕事をしろということだろうと思いますので、これからも一そう努めたいと思います。

八十歳になっても、まだまだうんと働こうと思っているのですから、無執着主義であっても、無慾ではなく、かえって大慾なのかもしれません。

このようにして、毎日、喜びに明けくれる豊かな気持ちの日々を送っておりますが、これは本当に恵まれた幸せなことでありまして、心から感謝せずにはおられません。

でも、毎日多くの方に会っておりまして、何かと頭を使うことも多いものですから、時折腹を立てることもある訳です。その折はすぐ、思いなおし、口の中で心の養生五訓をくりかえすのです。すると不思議に気持ちもおさまって、平静な態度に返れるのです。

08.お客さま行脚

おかげさまで銀行も発展し、若い人たちにまかせても大丈夫になったものですから、十年ほど前からできるだけ時間をあけて、各地の支店を廻り、お客さまをお訪ねすることにしております。

いまの銀行にまで育ちましたのも、みんな、お引き立ていただいたお客さま方のおかげですから、お目にかかってお礼を申しあげ、銀行についてのご希望なども直接うかがわせていただき、お役に立ちたいという気持からでございます。

お客さまをお訪ねしますと、立派な方ばかりですから、それぞれに味のあるお話を聞かせていただきますし、また各地の風情にも直接ふれることができますので、私にとりましては、この上なく、もったいない人生勉強をさせていただいているわけでございます。

折角、支店へまいるのですから、出来るだけ多くの方をお訪ねしたいというのが私の気持ちです。それで、支店のほうで老人のことだから・・・と、訪問先の少ないスケジュールを組んでくれたりいたしますと、私はちょっと腹を立てて、ムリに増やしてもらいます。

支店廻りには一人のほうが呑気ですし、年寄りの社長のお伴では、ついてくる行員も気づまりでしょうから、宮崎でも、広島でも、勝手を言わせてもらって、いつも運転手さんと二人だけでまいります。

お客さま行脚を続けておりますと、福岡から八十ヂヂイがわざわざ訪ねてきたというので、特別に預金をしていただいたり、また、家代々の宝物を見せていただくこともあり、何やかやと老人の旅には余徳もあるようでございます。

ともあれ、いろいろのことがございますが、いつでしたか、大分で、映画館の館主の方をお訪ねした折、その日がたまたま杮落としの日だったものですから、ちょうどよいところへきた、何か一つ話をしてくれと、無理矢理に、観客の前に引っぱり出されたことがございました。

突然のことで何も考えておりませんし、さて、困ったことだと思いましたが、仕方ないので思いつくままの話をし、私がいままで元気でおられたのは、「心の養生五訓」を守ってきたからです。皆さまも是非次のことを守っていただきたい。

そうすれば、不老長寿、間違いなしです・・・といって、腹を立てない、愚痴をこぼさない、よく諦める、愉快な心を持つ、悲観しない、の五訓を述べ、最後に、

一、よく映画を見ること。

とつけ加えました。

変なヂヂイが古くさいことを言うと、煙たげに聞いておられた大勢の方が、この一言で、とたんに大爆笑、拍手喝采、話せるヂヂイというわけで、館主の方にも何よりの祝辞だったとずいぶん喜ばれたことがございました。まあ、支店廻り、お客さま訪問の旅には、いろいろのことがありますが、それぞれにみな楽しく、いわばこの行脚は私の生涯の旅のようなものですから、これからも、九州、中国一円のお客さまを廻り続けようと思っています。

09.わたしのお墓

昭和三十七年の暮れ、少し気ぜわしいかもしれませんが、いつ冥土へまいってもよいように、平尾の霊園に、私の墓をつくりました。

一メートル角、三メートルの高さの石塔で目立つものですから、四面の碑文について多くの方々から、いろいろと言葉をかけていただきます。碑の正面には

祖先に対する最上の祭りは、道を守り業を励むにあり

ほかの面には、私の「力の泉」から、はじめの三つの言葉をとりました。ロイヤルの江頭匡一さんにこの碑文を褒められて、照れくさい思いをいたしました。すぐ目につく霊園入口にありますから、この文句を写していらっしゃる方もあるそうで、面映ゆいことながら、何らかのお役に立つのなら、これまた、老人の望外の喜びでございます。

10.朝のラジオの大ファン

いままで私の守った信条なり言葉をのべてまいりましたが、広い世の中ですから、達悟の人や、立派な人が沢山おられ、その方たちの言行を聞かせていただけるのも、私にとって非常な愉しみでございます。

毎朝NHKで放送される人生読本、これをかかさず聞いておりますが、教えられること、考えさせられることが非常に多く、おそらく、日本中で私があの番組の一番のファンだろうと思っております。

その他にも、電通の吉田秀雄さん。日本の広告を現在の地位にまで育てあげた立派な人ですが、あの方の、「仕事は自ら創るべきで与えられるべきでない。」から始まる「仕事の鬼十則」には、全く感心いたしました。

とくに、五条と七条がとりわけ私の気に入った箇所でして、座右訓として愛誦している次第です。

●取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは。

●計画を持て、長期の計画を持って居れば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。

11.ありがたい社会の恩恵

ずいぶんと固苦しいこと、自分勝手なことを書きましたが、これはあくまでも自分に対する信条、自我でございまして、決して他人に押しつけたり強制したりはいたしません。

人には人の好みがあり、生き方があること、また自分の生き方は、他から与えられたものでなく、自分で見つけださなければ、何の役にも立たないことも知っております。

七十五歳の秋でしたが、どなたのお奨めによるものか、黄綬褒章をいただきました。昭和三十九年、勲五等瑞宝章を頂戴しました。大変名誉なことだけに、自分の過去をふり返って、それに値するものかどうかと、甚だ心もとない気がしましたが、それだけに社会の恩恵と寛大さをひしひしと身にしみて感じ、これからもいっそうお役に立たねばと思ったことでした。

授賞の記事を伝えた新聞はみな褒め言葉をいただき、それぞれに恐縮しましたが、ある新聞に「一人一業をモットーに工業立国を強調、地方中小企業の指導、援助につとめ、さながら私設中小企業相談所の観がある」と書いてありました。この最後の一節は私にとって何よりの餞でございました。

12.夫婦円満のコツ

ふり返ってみますと、私もこの年までに、ずいぶん多くの人の仲人をいたしましたが、何よりも、うれしいのは、その人たちがみな仲睦まじく、幸せに暮らしていることです。

もっとも、中には、はなばなしい夫婦喧嘩をし、それがこじれてとうとう別れるということになり、私に始末をつけてくれと別れ話をもってこられる人もありました。

しかし私は、いわゆる口先だけの仲人口を言ったことはございませんし、それにまとめ役の仲人は頼まれたが、夫婦別れの仲人は引き受けていない。仲よくする話ならいくらでも相談にのるが、別れ話を僕にもってきたって知らないよ、とつっぱねてしまいました。

そうしますと話のもってゆく場がなく、別れるに別れられずといったありさまで、冷戦が続いておりましたが、そのうち次第によりがもどり、お子さんもできて、今ではこちらがあてられるほどの睦まじさでございます。

それから決まって申しあげることは、案外簡単なことですが、

欲しいものは買うな、必要なものを買え

ということです。欲しいものはうんと沢山ある訳ですが、結婚して一番大切なことは家計をしっかりすることですから、目うつりせず、本当に必要なものを買うことが大切です。

よく大勢の方から、四島さんは、どうしてそんなに元気なのか・・・と、お尋ねいただくのですが、私なりに考えたり、お医者さんから教えてもらったりして守ってきたものがありますので、それをご披露いたしましょう。

いろいろと述べましたが、私のいちばん心がけておりますことは、病気になると、軽いうちにとことん養生することです。

若いときから、ちょっと風邪をひいても、ほかの人が二日休んで出てくるときは、三日養生するというふうに、あと一日の大事をとりました。

病気を恐れることはいりませんが、病気になったときは、病気をあなどらないこと、こうした事は、一見、ムダのように見えますが、永い人生勘定では、結局ずいぶんプラスであり、銀行のためにもなっているのではないでしょうか。

有為の人が病気で早く亡くなられるのを見ると、誠に痛惜の思いがいたします。若い方とは言えませんが、緒方竹虎さんや吉川英治さん、電通の吉田秀雄さんのお亡くなりになったときなど、ことさら、その思いを深くいたしました。どうか皆さんも、お体には十分気をつけていただきますように。

13.楽しみは草花いじり

これまで銀行に関連した私について述べてまいりましたので、私生活についても一言ふれさせていただきましょう。

もとより、私も家庭へ帰れば一老人でございまして、私だけの趣味楽しみといったものも持っております。

毎朝、鶏や草花の手入れをすることも楽しみですが、四時過ぎには帰宅して作業服と地下足袋にはきかえ、庭いじりに本腰を入れております。肥料も自分でやりますし、草むしり、餌の混合、鶏舎の掃除も楽しみにいたします。

鶏はカロリー満点の栄養食をやっているので、もしかしたら卵一個が五十円ぐらいについているかもしれません。

でも丹精した卵で自給自足でき、家族が喜んでくれるのは楽しみなことですし、このフンが草花の肥料になるのですから、大変に重宝なことです。

お百姓の姿で園芸に夢中なものですから、初めて訪ねてみえる方が、私を作男かなにかと間違えられることも多いのです。そのつど、先方はビックリされるのですが、私にも少し稚気があるのかもしれません。

私の裏庭は、こうして四季の花をかかしたことがございません。花といえば草花の外、灌木系の花も多いのですが、実のなる木も、柿、桃、ミカン、茂木ビワ、ユスラ、グミ、木イチゴなど種類は豊富ですから、この季節にいらっしゃいますと、丹精の果物でおもてなしすることにいたしております。

また、私は赤穂浪士が好きですから、義士にちなんで、四十七種類の木を集め、それぞれに名札をつけて義士に献じ、私なりの楽しみにいたしております。

以前は、庭に隣接してテニスコートが二面あり、銀行の若い人が始終きて、よく練習をしておりました。このためか銀行のテニスチームは市内のインターバンクでよく優勝していました。この人たちが一汗ながし、風呂に入って帰るのですが、その風呂は私が沸かすことにしていました。ときどきお菓子を出したり、若い人の話を聞いたりしていましたが、テニスコートがなくなってこの楽しみが味わえなくなったのは残念です。

毎年夏に、我家は百道へ海水浴にくる行員や、家族の人たちの休憩所になっていましたから私もいっそうセイを出して風呂を沸かさなければなりませんでした。

数年前にヨット部をつくりましたら、それが国体で優勝したりして、何かと世話の仕甲斐があったと私も鼻が高いわけです。

夜は入浴のあと、ニュース放送をきいて、七時過ぎには寝みます。

こうした一日を送っておりますが、長い間私の世話を焼いてくれた妻にとりましては、並大抵の苦労ではなかったろうと思います。

私は老妻と一緒になりましたのは、アメリカから帰ってでございましたから、世間的には晩婚の方でございましたが、それ以後、妻はよく私を助けてくれ、私なりの生活を思うままにさせてくれました。

今にしてふり返りますと、ずい分辛いこともあったろうと考えますが、家を守り、子供を育て、私の我がままをよくきいてくれました。

こう考えますと、自分には強い男ですが、妻には頭があがらないような気がいたします。

14.むすび

思いつくままに、なんとなく私の一日を語り、考えていることを述べてまいりましたが、とにかくこれまで長生きでき、今でも元気に働いておれますのは、平素から節制を守り、健康に気をつけてきたからでございましょう。

私のこれまですべて満足できる生き方であったとは思いませんが、それでも思う限り、したい限りの生き方をしてまいりましたことに、いささかの悔いもございません。

一たび生れてきた以上、自分なりに満足できることをして、一生を終るほど幸福なことはないでしょう。そのためには、何といっても体に気をつけ、心を安静に保つことが大切です。

皆さま方も折角ご自愛下さって、健康で長生きされますよう、長寿万歳を心からお願い申し上げる次第でございます。

最後に私がこのように恵まれた生活を送れますのも、世間皆さまのあたたかいお引きたてをうけ、よい行員をもち、よい家庭があったからでございます。ありがとうございます。

感謝の言葉をもって、私のつたないおしゃべりの筆をおくことにいたしましょう。